昭和43年 5月25日 朝



 心得に(???)物事時節を待たず苦をすることと。真の道の心得です。信心さして頂く者の心得として、真の道の心得として物事時節を待たず苦をすることと。そこのところを御理解にどうくださってあるかと言うと、第御理解69節信心は見やすいものじゃが、みな氏子から難しゅうする。3年5年の信心ではまだ迷いやすい。10年の信心が続いたら我ながら喜んで和賀心を奉れ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けていけば、立ち行こうが。見やすう信心するがよいぞ。とあります。
 時節を待つということ。その間に、3年5年ではまだ信心が迷いやすいと。ここんところを、どのような場合でも迷わんですむ信心辛抱の徳をつけていくんです。そういう、その日その日のおかげを受けて行きながら、その日その日で立ち行けばよい。見やすう信心するがよいぞと。
 と、まぁこれはご神誡のまぁ(???)申しました。物事時節を待たず苦をすることと。それの内容があの御理解69節というふうに説明がしたいわけじゃないのです。もっと適切な内容の御理解があるかもしれません。けれども、私が神ながらに頂きますところではです。その内容はこういう内容に、なからなければならないということになるのです。
ですから、それとこれとを結び付けてですね、やはりお互いが工夫してみなければいけません。
 時節を待つということ。時節を待たずに苦をするということはどういうことか。時節を待っていればどういうことになるのか。ね、苦をすることの反対に楽なこと。いわゆる見安いこと。その日その日が立ち行けばいい。それをいつまでに、こうしてもらわんならん、ああせなならんと言う。いわゆる、焦り心と申しましょうかね。その焦り心がおかげにならない。
 一昨日には、3年5年の信心ではまだ迷いやすい。10年と信心が続いたら、我と和賀心を奉れと仰る。我と和賀心が奉れるような信心っていうところが、ここに求められておるわけなんですね。いわゆる時節を待っておる間に、いわば時節を待ったんじゃいけない。ただ何とかなろうと手を拒めいているだけじゃいけんのです。ね、ここのところをですね。ここのところをここの69節は説明してあるように思うのです。
 ね、その日その日が立ち行くところのありがたさ。その日その日の信心の稽古さして頂くところのありがたさ。今まで分からなかった。今まで知らなかった、知識を得られていくことのありがたさ。そういう信心の稽古をさして頂きながら、10年と信心が続いたら、なるほど本当に信心ちゃありがたいものだなぁと、いわゆる自らの心得の帰依ができてくるわけですね。ですから心得の帰依というのは、自分自身の心を合掌したいような心なんです。
 ね、日は年月の初めじゃによって、その日その日が立ち行けば、おかげを受けていけば立ち行こうがと。日は年月の初め。例えば、こういうような在り方にならして頂くことを、なら私はいつもどう説いているだろうか。
 ご神誡、ね、または真の道の心得。ね、ご神誡。こうして真の信心をさしてもらうものの心得としてです。物事に時節を待たず苦をすることと。ね、だから、その時節を待たず苦をすることというところがです。焦りです。焦ってはおかげにならん。ここんところをのんびりとのん気に構えとけということじゃない。ね、ここんところを御理解49節をもって頂くとです、ここんところを難しゅうしてはならんのです
 ばってん私がすると難しゅうなるです。地団太踏むようにして、お願いせんでするということは難しいです。そこんところをです。信心は見やすいものじゃが氏子から難しゅうすると。3年5年の信心ではまだ迷いやすいと。
 10年の信心が続いたら我ながら喜んで和賀心を奉れと。本当この3年5年、10年。例えば1つのことの成就ことでもですね。そこんところを和賀心が奉れるような稽古をさして頂きながら待つのです。焦らんのです。というて、どうにかなろうといったようなのん気に構えるというようなことではない。これでは始まらん。これでは和賀心が10年経っても、10年経ったって拝めるようにはなりません。
 ね、だから少しでも難しく考えずに、難しゅうせずに、和賀心を奉れれる稽古をさして頂きながら、日は年月の初めじゃによって、その日その日をおかげを受けていく。その日その日が立ち行くおかげ。その立ち行くおかげの中に、何とも言えん神様の(???)というか、豊かというか。もう何とも言えん。
 本当こう乾いた土地にお湿りがあって、そのお湿りがずっと大地に染み通っていくようにです。染み込んでいくようにありがとうなる。本当に神様が仰る通り。バタバタせんでも、その日その日が何とかなしにこうしてやって行けるんだなぁ。
 もう明日が食べるもんが無いと言いよっても、神様にお任せしきった信心さして頂きゃ、ちゃんと明日は明日で風が吹く。まぁそこんところは、私の過去の信心体験からいうてそう思うのです。
 もうお父さん、明日は米が無いですよ。それでもお前、今日は頂けたんだから。今日頂けたことをお礼申さして頂きゃ。明日は明日で神様が何とかおかげをくださるだろう。今日おかげを頂きました。今日までおかげを受けたことをお礼申し上げていけば、明日はそれこそ神様の、こちらの信心なりではありますけれども。
 ね、神様がちゃんと日干しにはしてくださらなかったという事実をですね。体験さして頂き。しみじみ何と神様の働きの微妙であること。お働きのもう本当に巧妙無比とでも申しましょうか。人間はただ恐れ入ってしまう。恐れ入ってしまうという、毎日を続けられていくうちに。
 ね、一例を1つ申しますとです。当時、草野の小学校で何か会合があった。その忙しい時に、すぐ私どもの裏の篠原さんというところにおられる。大体娘さんですけれども、(???)について帰って来られた。(????)草野側の人が、お手伝いに行かれた。たくさん集まるんです。その日がもちろん(????)いっぱいで、もう白いおにぎりなんかでも、銀飯というて大変高価なものだった時代です。
 けれども、町で何か事があったというので、炊き出しがあったんです。その手伝いに行かれた。ところがそれが沢山余ったんですね。とりあえず、お手伝いに来られたお家、お百姓さんですよ。沢山それを分け前っていうか、捨てちゃ勿体無いけんというてもろうて来なさった。
 私どもが難儀しておることをよう知っておられます。さぁこれあげましょう。と言うちゃあんまり失礼だと思うたのでしょうね。大坪さんお宅鶏がおるけん。鶏どん食べさしてくださいと言うて、おにぎりを沢山頂いた。
 とてもそれはおいしかった。おにぎりのまま頂くのは勿体無い気がしまして、それをお粥にしてからそれを頂くというようなおかげ。それをね、もう何とも言えん。何とも言えんありがたいこと。
 ねぇお母さん。さぁ明日はもう炊く米が無い。ね、どうするですか?まぁ明日の米はなかたっちゃ思えや。今日までは頂かして頂いたんだから。今後とも御礼申し上げて頂けば、明日は明日で何とか神様が明日の風は吹かしてくださるに違いはないから。さぁ今晩は休も休もうで、ありがたい勿体無いで休ませて頂いたら、明くる日はお供えが上がった。
 ね、朝から前の日に、そして、残っておったものをもろうてきて、(????)。ね、鶏にやってくれというてその頂いた。おかげで朝から腹をひもじい思いさせんで、またせんで済んだおかげを頂いた。そういう例を言うなら、限りがない毎日だったです。
 ね、本当神様が生かして下さる証拠には、なら生かされてある証拠には。ね、なるほど生かしてござるのじゃない。生かされておるんだなぁと実感せずにはおられなかった。
 そういう例えば時節を待つ。そういういわば日々を過ごさして頂く。ですから、本当信心は見やすいものなんですよ。さぁ明日食べるとがなか。そんならどうしょうか。というてさ、こういうのなら難しいけれども。本当に神様の働きを信じきっての生き方というかね。そういうおかげの頂けれる信心なんです。ね。
 そして、例えばお粥さんから、おじやさんが頂けれるようになる。おじやさんから麦のご飯が頂けれるようになり、白いご飯がいただけれるようになり、それからこれが山海の珍味であろうかというような珍味まで。それには副食として頂かしてもらいながら、頂けれるような時節が、だんだんだんだん近付いて来る。
 10年経つうちには、いよいよ自分で自分の心が拝みたいごと、ありがたくなってくる。くる頃には、いよいよこげなもの頂いて大丈夫じゃろうかと、勿体無いことだなぁ。しかも、それでももうこれ以上は頂けれん、いうくらい頂けれるくらいにおかげを頂く。(??????)これはちょっとお粗末になりませんか、というぐらいにおかげ頂く。
 なるほど、これは食べる物だけではございませんでした。もう人間の衣食住なら衣食住。全てがそうでした。4畳半の畳も敷いてない。雨が降りゃあ漏るというようなお家から、だんだんこうおかげを頂いて参りまして、着物でも子供達には、それこそボロの配給がございました。(????)それをつぎ集めて、それを色んな色に染めて子供達には家内が着せておりました。そういう着物はとってございます。
 ちょうど歌舞伎芝居なんかに出てくる、子供が着るような(?????)な着物です。色んな着物をつぎ合わせて着物の形を作った。それを臙脂色、臙脂色にこう染めて。それを着せちゃる。ね、そういう時代からです。
いうなら、そういうボロの様なものの中からくるものが、またはくるものでもこれは新しいからというて、木綿から銘仙。銘仙から金紗というように、だんだんもうこれは最後、この頃から頂きました私どもの着物なんかは、これは人間国宝になった人が作ったという。一枚が反物で10万近くもする。私は7万と思っとったら、それに裏がついとるから、先生これは10万かかります。
 というようなですね。例えば物が求めんでも、頼まんでも身に付けられるように、だんだんおかげを頂いていく。ここんところがありがたいですね。さ、そこでなら、私が今日皆さんに聞いて頂いたです。ね、ご神誡。いわゆる信心する者の心得として、教祖の神様はです。物事時節を待たず苦をすることとこう仰る。
 なら只その時節を只待ってさいおれば良いのかというのではなくて、次のなら御理解に今日神ながらに頂くところによりますとです。69節を頂いた。その69節には只今また申しますように、信心は見やすい、見やすいものじゃと、ね、信心は見やすいものじゃが、みな氏子から難しゅうする。3年5年の信心ではまだ迷いやすい。10年の信心が続いたら我ながら喜んで和賀心を奉れ。 日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けていけば立ち行こうが。見やすう信心するのが良いぞとなる。
 ね、ですから例えば現在はもう本当に食べるに職なし、着るに衣なしという時であってもです。慌てちゃならん。ただ神様に一心縋り抜いていけばいい。しかも、そこは見やすう信心していきゃいい。そして、3年5年の信心では迷いやすいと仰るようにです。迷わん。
 もうどのようなおかげを頂いても、どのようなことになっても道をまちがえるようなことはない。迷うようなことはないだけの信心をしっかり頂いて、本当に我と和賀心が拝まれるように、どんなに考えても、お母さんおかげ頂いたもんじゃあるね。ありがたいことじゃあるねと。毎晩毎日言い暮らせれるような内容がでけて。ね、私はおかげを頂かしてもらう信心なのです。
 ですから、そこんところを私がどういつも皆さんに説いておるかと。皆さん考えてみてください。ね、これが教祖の神様のご神誡。それから御理解を私皆さんに聞いてもらって。そこんところを私は日頃皆さんに言っておるか。ね、成り行きを大事にしていけと私は言っておる。ね、どのような事態であっても、そのことをです。神様の御働きそのままとして、それを合掌して受けていくところの3年であり5年であり、10年でなからなきゃならんのだということ。
 ね、その間には人から馬鹿と言われることもあろう。恥ずかしい思いをすることもあろう。ね、場合には中には、雨でもあろう風でもあろうかという時もあろうけれども、その辛抱こそ、いわゆる身に徳を受けていきよる姿だと思う。いや、身に徳を受けていきよる状態。
 ね、雨風も天にまかせて地に縋れ。忍び折れるな若竹の星というようにです。いよいよ本当のものに育っていくために、折れてはならん曲がっちゃならんで、ここんところを頂く。いわゆる、成り行きを大事にしておかげを頂いていけとこう言われる。
 そこのところを、例えば昨日北野の秋山さんところの謝恩祭。本当にえー年々歳々儲けだしていきござる、といういうような形は見えんにしましてもです。あのお祭りの内容からいうてもう本当に昨日、若先生があるところの大祭に参りまして、帰りにあちらにまわって参りました。私、日頃よその教会に参りませんから、本当にもう来てからすぐご神前にお祭りの準備ができておる。
  よその教会あたりで(????)ちゃなかねというてから、トオル君と話し合っている。二人が帰ってきたばっかりのころ。ね、それが、一ご信者さんのお家で、こうして1年に一度の謝恩のお祭りさして頂くのに、今参ってきたどこどこのお祭りじゃなか(????)それ聞かして頂いてから、本当におかげだと。
 さぁ、いよいよお祭りが始まる頃になりましたら、ちょうど秋永先生が、先生今日は、70名から集まっとりますばいっち。もうそこいっぱい。しかも、秋山さんの信心に皆が、ね、お付き合いとかやない。秋山さんの信心に、いわば皆集まってこられた人達。御用頂く人だけでもたくさんの人でした。
 ご信者さんだけではありません。隣近所の方達までが手伝いにみえてると。これは日頃の秋山さんの信心を物語るものだと私は思うのです。ね、本当に私はありがたいとこう思う。
 そういう例えば、お祭りでございましたが、そのお祭りの御理解にです。例えば、今日私が皆さんに申しております。ご神誡と御理解のことを、椛目では成り行きを大事にしろと。成り行きを大事にするということはどういうことなのか。人はそれを大事にしていきよるならば、それを見てから馬鹿じゃなかじゃろうかという。
 例えていうなら、秋永先生が事故に遭われてから、昨日一昨日、月例祭の日がちょうどまだ2年でございました。ね、それでなら相手に怪我をさした相手のこととの問題なんかというのは、もうそれこそ神様にお願いをされると、ほっとけほっとけである。2年間放からかしたままですよ。向こう何とも言うてこん。それでもこっちは放からかしのままです。
 ね、いうなら時節を待っておられるわけなんです。ほんなこつならば、例えば家ん中に3人も生きるか死ぬという目に遭わしておいて、大変な損害をかけておいて。ね、それこそたいがいなことにしとかんか、と言うところでございましょうけれどもです。
 この辺が、私は信心のありがたいことだと思うのです。任せておれれる。そしたらちょうど、その前日そのことのお話し合いがしたいからというような、話しがようやく今持ち上がってきた。2年ぶりです。まぁ普通の者でこんなじっとして待っておれるだろうか。イライラ、モヤモヤするところが。せっかく待ったんじゃから、もう待たして頂く。もうとにかく待っとくがええて、という生き方なんです。
 というてなら楽しいどころか、決して楽なじゃない。そのための被っておる損害とうものは、もう大変な損害である。でも、その間をです。只なら一家中のものが一生懸命信心になって、いよいよ信心のありがたさに触れて、いわゆる3年5年の信心では迷わんで済む、いよいよ我と和賀心を拝めれるような稽古を一生懸命続けておられるだけなんだ。
 ね、そこんところをですね、昨日は、ね、本当の生き方。ね、真実の生き方。信心さして頂く者の本当の生き方という生き方は、どういう生き方か。真の信心をするものの本当の生き方というのはどういう生き方か。ということを、昨日の御理解に頂いたんですね、夜。
 本当の生き方っていうのはね。打算がない計算がない。だから、馬鹿と阿呆で道を開けと仰る。馬鹿と阿呆になることもここ1厘につきるんだと。というふうに頂いたんです。ね、馬鹿と阿呆で行けばですね。そんなに計算せんで済む。ここにはもうおかげが、絶対のおかげがですね、いわゆる本当の信心すりゃあ、本当のおかげが受けられるという。
 本当のおかげが絶対に頂けれる道なのです。馬鹿と阿呆で開く道というのはです。もう本当のおかげが頂けれるのです。ここんところ、理屈というか理論をいうなら、もう限りがないです。限りがないって、そりゃ1時間2時間じゃ説けることじゃないと思うです。 けれども、さぁそこんところを馬鹿と阿呆になってというような、(????)的な話しをしましたが、馬鹿と阿呆で行くという生き方が、これが真実の生き方なんです。言葉は悪いですがね。馬鹿と阿呆でというのは。
 けれども、本当の真の信心をさしていただく者の生き方なんです。信心は賢うなるためでも、利口になるためでも、偉くなるためでもない。ただ、ありがとうならして頂くための稽古だと。そのありがとうならして頂くということが、即、馬鹿と阿呆にならして頂く稽古なんです。
 よくその漫才なんかに見ておりますと、馬鹿(???)おりましょうが。まるっきり人をくったような馬鹿がおりますよね。あれじゃないです。よく信心の中にもそれがあるんです。私はどげん、どうでもよかと。どうでもよかと。いかにも馬鹿んなっとると言わんばっかり。まるっきりそれでは、相手は馬鹿にされとうごたぁ。そげな風に言われたら。
 昨日も、ある事件ごとで問題になっとる。もう先生私はどうでもよかってすけれども。そげなこと言うなら、かえって相手が腹かくわな。どうでが、心の底にどうでもよいのであって。実は、こうこうだと、言わなきゃ相手には通じんよ、と私は申しましたけれどもですたいね。
 もう、それこそ相手を馬鹿にしたような、いうならあの馬鹿と阿呆ではなくて、自分自身が相手を馬鹿にするのではない、自分自身が馬鹿になるのだ。阿呆になるのだ。そういう生き方が真実の生き方なんだ。これが真実のおかげの頂けれるもとなんだ。本当なおかげの頂けれる。本当なおかげの頂けれる生き方は、もう馬鹿と阿呆、ここに極まったと。そういう極限でした。
 昨日の、秋山さんところの御理解に。そして、私はその、なるほど馬鹿と阿呆のことということをですね、考えてみれば考えてみるほど、素晴らしいことにつながってき、そして、今朝の御理解を頂いてみると、こういう御理解につながってくるんです。
 ね、馬鹿と阿呆になっておかなければ時節を待つことはできません。秋山先生が利口人であったら、先生そげんなこと言ったっちゃ。向こうのほうから来て、おおちゃくなる。情が憎かと言って、言うたっちゃよかとこなんですよ。ね、馬鹿と阿呆にならなければ、待てることではないと。
 しかし、それは本当の生き方なのです。ね、それが時節を待たず、苦をすることでもない、神様にお任せしてある、そして、自分自身の(??????????????)しとんのじゃない、こうして、ね、ここから毎朝、朝のご祈念にでもお参りさせて頂いてからという、御用といや、1にも神様、2にも神様という生き方なんです。そこに、私は我と和賀心が拝まれる信心が育っていきよる姿である。
 私は今日の2つのご神誡と御理解を、椛目ではそれをどう説くか。成り行きを大事にさして頂くという風に説く。それをもう1つ。なら、昨日の秋山さんところのお祭りの御理解から頂くと、いよいよ馬鹿と阿呆になるということだと。馬鹿と阿呆にならなければ、成り行きを合掌して受けられない。
 今日、私、そのような御理解を頂きましたのは、あのご神前でご祈念、今日は出らして頂きましたら、モリベ?の高山さんがね、黒板に2っていう字をこう、1,2の2を書いた。そして、そこに小数点が打ってあってから、0を1つずつこうやって、これから書いていかんならんというふ(???)をしてござった。 
 皆さん、例えばこれは2というのは、あちらが夫婦が総代をしておられたり、夫婦が揃って信心をしておられという意味でしょうね。これが丸が一つ多うなると20。三つになると200。うん。そうかな?二つになると200かな。うん。三つになると2000。四つになると万。もういよいよ、この丸をつけてさえいきゃあ、いよいよ無限大につながっていくということなんです。
 ここんところが、今日の御理解のね、ここんところが、今日の御理解を分からして頂くと、こういうおかげ受けられるということなんです。丸ということは円満ということでもあろうけれども、0という意味。いつも自分を虚しゅうしておることなんです。
 こういう一人の難儀な問題、事件があってもです、それを本当に神様まかせにしておるということなんです。これは、自分をうじゃごじゃしておる。そういうことが、たくさんあれば、あるたんびに、丸が増えていく、1に丸がつくよりか、2よりも3についた方がよかですね。倍じゃん。1000円より2000円の方がいいでしょう。それに、この丸をつけていく。
 家族中が5人おるなら、5人が本気で馬鹿になる稽古してもらうなら、5になるでしょうね。5に0が一つずつ付いていきゃあ、三つ付けば5000。ガラッとおかげ頂くと。そういう意味合いで夫婦が勢をそろえた、家族が勢をそろえた。しかも焦点は、ただいま申しましたところに焦点を置いての信心。
 ね、本当に(??音声不良??)付くのだという気持ちになると、楽しいでしょうが。それを、私どもがですね、それを、よう、いわゆるその丸。円満にそれを丸にしきらん。
 ご神誡、御理解の中から、ね、そして日頃、合楽で頂いておりますみ教え。同時に、昨日、秋山さんのところで先ほど頂きました、馬鹿と阿呆。この馬鹿と阿呆ということも、さきほど申しましたように、馬鹿と阿呆というのは、人を繰ったような馬鹿じゃない。人を食ったような馬鹿は、馬鹿じゃなくて、相手を馬鹿にしとる。ね。
 本当に自分自身が馬鹿になっていくということ。しかも、それはですね、いよいよ無限大につながるということ、おかげが。その馬鹿と阿呆での生き方こそがです、本当の人間の本当の生き方だということ。
 真の道にある者は、真の道を踏まねばならぬが、この本当の生きかたをしなければならない。そこに、神様がくださろうとする本当のおかげが現れてくる。しかも、その本当のおかげもです、いわば、だんだんおかげを頂いて、この丸がいくつにもなっていけばいくほど、丸ぐらいのもんちょこっと思っとるけれども、あなた、一つ多なりゃ、ね、一の位から十の位、十の位から百の位、百の位から千の位、万の位になっていくんですけん、大変なことなんですよ。
 いわゆる無限大につながっていくところが感じられます。そういう信心をいよいよ身に付けていかなければなりません。神誡、御理解、そして日頃ここで頂いておること、そして、昨夜、秋山さんのところでは、もう御理解はこれが最後になるかもしれんというような御理解をされた。
 だから、ここに極まったんだから、もうこれだけ皆さんが覚えとけば、もう何でん言わんでよか、というようなふうに夕べ言うてくださった。けれどもやっぱ今日はまたこうして長々と頂いておったとみるとですね、ね、どうしても頂かしたい。そんなものを、神様の心の中から感じることができます。だから、それを神様どうしても、そういう信心になりたいという、本気で願いを立てなければいけないってことなんですよね。 
(途中から?)ということは、どういうことかというとですね。高山ということはね、あの、いわゆる、高いというね。高度な山というか修行と。今日、私が申しましたような修行が最高の修行ということ。ね、一番尊い修行だと。高度な信心だということ。同時に敏光ということはね、すみやかに光ると書いてあるでしょう。敏とね。敏の光ると書いちゃる。ということは、皆が心の底に願っているおかげがね、こういう生き方が一番早いんだと本当のおかげが。もう一番本当のおかげを、早く頂く道だということです。ね、敏光さんがこの丸をつけていこうとしておられるのは、それなんだ、高山敏光さんに関係があるとじゃなかろうかと。ね、そういう、高山敏光というのは、高度の修行。これが最高の修行。しかも、一番早く頂けれる本当のおかげの、早く頂けれる、ようはうちだということですね。

佐田與一郎